Maxwell's_Demon
Maxwellの悪魔の実現
ここでは我々の研究室の鳥谷部さん,宗行,と 東京大学大学院 理学系研究科の沙川さん,上田先生,佐野先生の共同研究となった,Toyabe, Sagawa, Ueda, Muneyuki, and Sano, “Experimental demonstration of information-to-energy conversion and validation of the generalized Jarzynski equality”, Nature Physics (DOI: 10.1038/NPHYS1821)の前半部分に相当する内容について紹介します.
この研究は,微細加工技術とサブミクロンスケールのリアルタイム制御システムを組み合わせ,「マックスウェルの悪魔」を世界で初めて実現した,ということで話題になった研究ですが,ここではその背景となる熱力学の第2法則やマックスウェルの悪魔の説明から始めて,以下の順番で比較的分かり易い説明を試みようと思います.
1.熱力学第2法則
2.マックスウェルの悪魔
3.マックスウェルの悪魔の実現
1.熱力学第2法則
熱力学第2法則は物理学の法則としては非常に珍しく,式を使わずに言葉だけで述べられる法則です.言葉を使って表現するので色々な言い方がありますが,
クラウジウスの原理
低温物体から高温物体に熱を移すことは,それ以外に何の変化も残さずにすることは不可能である.
トムソンの原理
1つの熱源から吸収した熱をすべて仕事に変えることは,それ以外に何の変化も残さずにすることは不可能である.
という二つの言い方が良く取り上げられます.クラウジウスの原理はもしこれを破ることが出来れば温度差のないところから温度差を作ることが出来,その温度差を使って物体を膨張させるなどして仕事をさせることによりトムソンの原理を破れますし,もしトムソンの原理を破ることが出来れば,そこで得られた仕事で摩擦熱を発生するなどして物体の温度を上げクラウジウスの原理を破ることが出来るので,結局この二つの原理は同じことを言っていることになります.この熱力学第2法則は人類が今だかってその反例となる事実を見つけることが出来ず,将来も見つけることはないと信じられている,自然科学におけるもっとも根本的な法則の一つです.
2.マックスウェルの悪魔
以上のように熱力学第2法則は決して破られることはない法則ですが,なんとかしてそれを破ることはできないものかと,古くから多くの人がアイディアを出してきました.その中でもっとも有名なものの一つがジェームズ・マックスウェル (1831-1879)(19世紀最高の物理学者,電磁気学,熱力学,統計力学の構築に大きな役割を果たした.土星の輪を発見したことでも知られる.)によるものでマックスウェルの悪魔と呼ばれています.これは クラウジウスの原理を破って温度差を作り出すものとして考え出されました.
ここで温度が高いと言うことは,物質を構成する原子が不規則に激しく動いている状態を指し,温度が低いと言うことは物質を構成する原子の動きが鈍いことを指します.
実際にすべての物質は温度に応じて揺らいでいて,その揺らぎは熱揺らぎと呼ばれます.目に見えるような大きな物体ではその動きはほとんど感知されませんが,空気の分子では,他の空気の分子と衝突し,めまぐるしく方向を変えながら,速いものや遅いものはありますが,平均すると毎秒300 m位の速さで吹っ飛んでいます.この速さが空気中を音が伝わる速さを決めています.水中でも水の分子は1秒間に10^13回も衝突しながら平均して秒速数百mで動いています.この水分子の衝突に突き動かされてマイクロメートル程度の大きさの物体は水中ではブラウン運動と呼ばれる不規則な動きを絶えず示します.このブラウン運動も熱揺らぎの一つです.
したがって気体の入った容器の左右の部分に温度の差を作って,右を熱く,左を冷たくするには,平均の速さより速く飛び回っている気体の分子を右に,平均の速さより遅く飛び回っている分子を左に集めればよいことになります.
そこでマックスウェルは図1のような容器の真ん中に左右を仕切る扉とそれを開閉する一匹の悪魔を考えました.
扉は,極めて軽く動くものとし,その開閉にはエネルギーは要らないとします.このようなエネルギー無しに開閉できる扉を考えることは理想的な状況を考えることが多い物理学の世界ではさして不自然なことではありません.そして悪魔は右の部屋からおそい気体分子が飛んでくると扉を素早くあけて左の部屋に通過させ,すぐにまた扉を閉じ,左の部屋から速い気体分子が飛んでくると同じように扉を素早く開閉し右の部屋に通過させるものとしました.このようなことを繰り返していると容器の右には速い気体分子が集まり,左には遅い気体分子が集まるでしょう.つまり左右に温度差が出来ることになります.
気体分子は通過する時には扉に触れることはないので扉からエネルギーをもらうことはありません.扉を通してもらえない気体分子は扉に衝突して跳ね返りますが,その跳ね返る勢いは衝突する前の勢いと同じで,ここでも扉からエネルギーをもらうことはありません.つまり,マックスウェルの悪魔がいると容器の中の気体分子はエネルギーを外からもらうことなく,しかし,容器の左右に温度差が出来ることになるのです.これは「低温物体から高温物体に熱を移すことは,それ以外に何の変化も残さずにすることは不可能である.」というクラウジウスの原理を破るように見えます.このマックスウェルの悪魔は熱力学第2法則を理論的に破れるのではないかと言うことで1867年の提案以来大論争を引き起こしてきました.しかし熱力学第2法則が破られるはずはありません.どこかにトリックがあるはずです.
そこでもう一度マックスウェルの悪魔が何をしているかを整理しましょう.
- 1.悪魔は,飛んできた気体粒子が速いかどうかを観測する.
- 2.観測して得た情報を記憶する.
(悪魔がトリ頭ではデタラメにしか働けないからここは必要です) - 3.扉を操作して気体分子を通過させる.
- 4.先に得た記憶を消去して次の粒子の到来に備える.
(一発芸的にやるのであれば,ここは必要ないかも知れません)
これらの4つのステップのうち扉の操作や気体粒子の通過,扉と気体粒子の衝突ではエネルギーは変化していないことは先に説明したとおりです.すると熱力学第2法則に反さずに悪魔が働くためには1,2,4のステップのどこかでエネルギーを使っているはずだと言うことになります.しかし1,2,4のステップは本質的に情報が絡む話です.物理学は質量とか速度とか,温度とかの関係を問題にしてきたのですが,その中に情報というものは入ってきたことはありませんでした.
この問題にひとまずの解決が与えられたのはマックスウェルの悪魔の提案以来100年近く経ってから1961年に発見されたランダウアーの原理によってでした.ランダウアーは4.のステップ,つまり情報の消去にはエネルギーがいることを示したのです.例えば,左右に同じ大きさの部屋に分かれた箱があって右の部屋にボールが入っていると言う情報を消去するにはkBT ln2だけのエネルギーが必要なことをランダウアーの原理は示します.さらに2009年になって今回の研究の主役の一人である沙川さんが上田先生とともに1.のステップでもエネルギーが必要なことを示し,これによって実はマックスウェルの悪魔は私たちに気付かれないようにエネルギーを使って働いていることが発覚したのです.
したがってマックスウェルの悪魔を実現すると言うことは提案当初は熱力学の第2法則を破ると言うことと同義だったのですが,現在の理解ではエネルギーを使って情報を手にいれ,それによって気体分子に直接働きかけることなくその動きを制御することだと言うことになります.
このように以前でしたら実験的にマックスウェルの悪魔を実現しようなどと言うことは神をも恐れぬ不届き者のレッテルを貼られる行為だったのですが,理論的な研究によって情報というものを取り入れれば決して出来てもおかしくないことであることがはっきりしてきたのです.
3.マックスウェルの悪魔の実現
ここまでの説明でマックスウェルの悪魔の実現はけっしてトンデモな話ではなく,現在の物理学の知識に基づけば出来るはずのことであることがおわかりいただけたかと思います.しかしそれでも実際にこれを作るのはそう簡単ではありません. まずマックスウェルの悪魔は,動かそうとする気体分子に直接手を下すことなく移動させてしまうのですが,それは気体分子が何もしなくてもバラバラな方向にその場の温度に応じた速さで飛び回っているから出来たのでした.従って,動かす相手をうまく選ばなければ,たとえ動かせたとしても膨大な時間がかかってしまい,実験としてはうまく行きません.そして扉の開閉を素早くすると言うこともポイントです.扉を開けるのが遅ければ気体粒子は扉にあたって跳ね返ってしまうでしょうし,あけたらすぐに閉めなければ通って欲しくない粒子まで通ってしまいます. ところで,何もしなくてもある程度温度が高ければバラバラな方向にさまざまな速さで物体が揺らいでいる,つまり熱揺らぎをしている,ということは,物体の大きさがマイクロメートル(1/1000ミリメートル)程度の物体の世界では実は普通のことです.実際に現在のナノテクノロジーの世界では非常に微小な物体を使って何かをしようとしているので,その揺らぎを押さえることがとても重要になっています.そのために温度を下げたり,大きなエネルギーを使って熱揺らぎを押さえつけようとしているのですが,この世界はまさにマックスウェルの悪魔が活躍できる場でもあるのです.そしてこのような場でマックスウェルの悪魔を実現すると言うことは物理学として面白いだけではなく,マイクロ,ナノといった微小なスケールの世界で高速かつ精密な制御をするという技術的にも挑戦的な目標として位置づけることが出来ます.もしこれが出来れば熱揺らぎを押さえる代わりにそれを利用するという,今までとは逆の発想で物体の移動を制御することになり,そう言う意味でも画期的なことです.この実験面での挑戦を引き受けたのが,この研究の主役の鳥谷部さんでした.
マックスウェルの悪魔の考え方が分かって,その実現が非常に面白いことであることは分かったのですが,マックスウェルが考えたように容器を用意してその間に扉を付けて悪魔をどこかからつれてきて門番をさせることはできません.考え方が分かったのですからそれに従って,私たちが作ることが出来るマックスウェルの悪魔と同等な仕組みを考えることになります.物事の本質を理解した上で,要するにこうすれば良いという,いわばコロンブスの卵のようなアイディアを考えるのはとても楽しいことです.
そこで何かマックスウェルの悪魔と同じようなことをして粒子を低い位置から高い位置にうごかす,物理学の言葉で表すと粒子にポテンシャルエネルギーを与える,ことを目標にしました.
ここでマックスウェルの悪魔が使った情報は気体分子の速度に関する情報でしたが,私たちは粒子の位置を情報として取り入れることにしました.そしてマックスウェルの悪魔は一ヶ所にとどまって,扉のところにたまたまやってくる気体分子を通したり通さなかったりしたわけですが,私たちの場合は,たまたま高いところに上った粒子,ミクロの世界では粒子は激しい熱揺らぎをするのでたまには高いところに上ることがあるのです,の後ろに後戻りできない仕切を入れていくことにしました.マックスウェルの悪魔は一ヶ所にいて多数の粒子を仕分けして温度の高低を作ったのですが,私たちは一つの粒子を追いかけてその後ろに仕切を入れることにより,その粒子を高いところに持っていこうというわけです(図2).
仕切は粒子の後ろに入れるだけですから,直接その仕切で粒子を叩くわけでもなく結局マックスウェルの悪魔と同じように,粒子に関する情報を得てその粒子のポテンシャルエネルギーを上げようと言うわけです.
このようにして少し問題設定は具体的になってきたのですが,それでもまだ雲を掴むような話です.
ここで研究室にあったF1-ATPaseという回転分子モーターの研究のための回転電場装置が役に立ちました.この装置はガラス板の表面に4つの微細な電極が蒸着してあり,この電極に電圧を加えることで電極に囲まれた部分にさまざまな電場を作ることが出来ます.F1-ATPaseの研究では4つの電極に位相を90゜ずらした正弦波状の電圧を加えて回転する電場を作り,それによって電極の中心にある分子モーターに結合した直径0.3マイクロメートルほどのプラスチックビーズが二個つながったものにトルクをかけて顕微鏡でその様子を観察する実験を行っています.このとき回転する電場中のプラスチックビーズは電場が作る螺旋状に上って行くポテンシャルの上に置かれたような状態になります.ここでさきほどから”高いところ,低いところ”と呼んでいたものをこの装置で電場が作るポテンシャルの高低に置き換えて,動かす距離を回転運動での回る角度に置き換えると,ちょうど私たちの作りたいマックスウェルの悪魔が働く舞台に出来そうです(図3A).
そこで,私たちはF1-ATPaseは使わずにプラスチックビーズを直接ガラスの表面に一点で結合させ,さらに仕切を入れることも考えてうまく電極にかける電圧を制御し図3Bの様な電場によるポテンシャル(青線)を作りました.適当にポテンシャルの山と谷の差を調節することにより,このようなポテンシャルの上で一点でガラスに結合したプラスチックビーズは,回転ブラウン運動をして,たまには右方向の山に登りかけたり,時には山を越えたりしますが,全体として左下がりなので平均すると左の方のポテンシャルの低い側に動いて行きます.そこでそれを顕微鏡で観察しながらプラスチックビーズの角度がポテンシャルの右の上り坂の途中のSと書かれた領域にたまたま来たときに電極にかけた電圧を切り替えて図3Bの点線のようなポテンシャルに切り替えました.簡単に書いていますが,ポテンシャルを綺麗に作るためには1メガヘルツ以上の高い周波数で電圧をかける必要があり,ビーズの位置を通常のビデオとは比べものにならない高速カメラでとらえてその画像を瞬時に処理してポテンシャルを切り替えるという,実験家にとっても非常に難しい問題をいくつもクリアしています.このようにしてポテンシャルが切り替わるとビーズにとっては,すぐ左に新しいポテンシャル(図3C赤線)による左上がりの勾配がありますから左には行きにくくなります.これが仕切を入れたことに相当します.そしてビーズの右側には新しいポテンシャルの右下がりの勾配がありますからビーズは新しいポテンシャルの右の谷に落ちて行くことが期待されます.この谷底はもとのポテンシャルの左側の谷よりは高いところにあるのでビーズはポテンシャルの高いところに上がったことになります.新しい点線のポテンシャル上で領域Sを設定し直して同じことを繰り返すと,ビーズは動き損ねることもありますが総じて図の右の方向,つまりポテンシャルの高い方向に動いて行きます.ここでビーズがポテンシャルの坂を上るときのエネルギーは熱揺らぎから供給されていて,ポテンシャルを切り替えるときにビーズがSの領域にいる限りは外からエネルギーをもらっていないことに注意して下さい.つまり,これでビーズの位置を測定して領域Sにいたという情報をもとにポテンシャルを切り替えてビーズの背後に仕切を入れ,ビーズに対しては直接エネルギーを与えることなくポテンシャルの高い方向に移動させたことになります.これが本実験でのマックスウェルの悪魔なのです.
ところで,マックスウェルの悪魔を実現するには素早い操作が必要だと述べました.実際ポテンシャルの切り替えにもたもたしていると,ビーズの位置を観測したときには領域Sにいても,ポテンシャルを切り替えたときにはSの外にいるかも知れません.そこでビーズの位置を測定してからポテンシャルを切り替えるまでの時間を変えてビーズの移動する様子を観察したのが図4です.
たしかに1.1ミリ秒という非常に速い切り替えの時はビーズがポテンシャルの坂を上って行きますが,8.8ミリ秒ではポテンシャルの坂の上り下りがとんとんで釣り合っていて,35.2ミリ秒ではせっかくポテンシャルを切り替えてもビーズは坂を下ってしまいます.やっぱり今の場合,素早いと言うことは重要なのです.
「ポテンシャルを切り替えるときにもビーズがSの領域にいる限りは外からエネルギーをもらっていない」と先に書きましたが,たとえ1.1ミリ秒でポテンシャルを切り替えても切り替えたときにビーズがSの外に出ている可能性はあります.その時には実はビーズはポテンシャルを作る電場からエネルギーを受け取ってしまいます.逆にビーズがSの領域にいる時にはビーズは実はポテンシャルを作る電場にエネルギーを与えることになります.そこでそのような場合も考慮してビーズが電場とのやりとりで得たエネルギーを計算し,ビーズが坂を上ることによって得たエネルギーとの差をグラフにしたのが図5です.
横軸はビーズの位置の測定からポテンシャルの切り替えまでの時間です.ここでも非常に素早くポテンシャルを切り替えたときだけビーズの得たエネルギーが電場から得たエネルギーより大きくなっています.もちろんこのエネルギー差は熱揺らぎからきています.これは一見,最初に述べたトムソンの原理を破っているように見えるのですが,それはビーズの位置の情報をエネルギーを使って測定したからできたのです.測定に要したエネルギーも含めて考えれば熱力学第2法則は破れていません.このようにしてビーズの位置情報によって,外から加えたエネルギー以上のエネルギーをビーズに持たせたという意味でこの実験は情報からエネルギーの変換を行ったということが言え,マックスウェルの悪魔の実現にもなっているわけです.またビーズに直接力を加えずに熱揺らぎを利用して動かしたという点で画期的なものです.
原論文ではこの後,測定で得た情報量から計算したエネルギーとビーズが得たエネルギーの比や,一般化Jarzynski等式の検証などが述べられていて非常に重要な内容を含んでいるのですが,残念ながら今まで書いてきたような説明をこのまま続けていってこれらについて十分に説明することは,宗行の能力を超えています.後半の部分の理解のためには今一度基本に立ち返って基礎からしっかり勉強しないといけない部分が多々ありますので,ここでの説明はこれでお終いにしたいと思います.もしここまで読んでもっと先まで知りたいと思った人は,がっかりせずに目を見張るような世界がまだ先にあると思って勉強してみて下さい.